親の愛情を感じたり
実家に帰ってきてから、親へ感謝を感じるようになった。
私は今回体調を崩してしまったけれど
実家でご飯を食べ、話すうちに
少しずつ調子がよくなってきているように思う。
今までは煙たくて、反抗期のような接し方しかできなかったけれど
親への感謝というものを感じるようになった。
実家に帰ってきて、親も喜んでいるように思う。
こうしてゆっくり一緒にいられることも、
もしこれから外で働きに出るなら、なかなかないことだと思う。
そう思うと、この時間は私にとって大切な機会だったのだと思う。
私は「計画的に」という言葉が嫌いだ。
「柔軟に」という言葉の方が好きだ。
計画する段階では、未来のことがすべて見えているわけではないのに
計画して、計画通りに進めようとするのは、傲慢というものだ。
それよりも、やってみて、新しく判明すれば柔軟に、という方が現実的だ。
しかし、このような考え方の違いが、一緒に働くひととの間にあると
思っていた以上にしんどいことになる。
ひとの価値観の多様性がわかっていれば、落とし所もあるし、
分かり合えて尊重できる部分もあるであろうに、
「計画的」に心酔しているひとにはわかってもらえない。
さて、親の愛情の話から逸れましたが、
つまり、人生とは計画的にはいかない、というものです。
「計画的」であると「安心」かもしれない。
けれど、それが「幸せ」かはわからない。
誰も責任を取ってはくれない。
それは存外、道端の草花のように、ひっそりとあるような気がする。
「偶発的計画性理論」のもと、心惹かれるがままに
たゆたう存在でありたいと思う。