あさきすの心のうち

30歳。裏切られて傷つき引きこもり、退職。からの、これからの話

親の愛情を感じたり

実家に帰ってきてから、親へ感謝を感じるようになった。
 
私は今回体調を崩してしまったけれど
実家でご飯を食べ、話すうちに
少しずつ調子がよくなってきているように思う。
 
今までは煙たくて、反抗期のような接し方しかできなかったけれど
親への感謝というものを感じるようになった。
 
実家に帰ってきて、親も喜んでいるように思う。
こうしてゆっくり一緒にいられることも、
もしこれから外で働きに出るなら、なかなかないことだと思う。
そう思うと、この時間は私にとって大切な機会だったのだと思う。
 
私は「計画的に」という言葉が嫌いだ。
「柔軟に」という言葉の方が好きだ。
 
計画する段階では、未来のことがすべて見えているわけではないのに
計画して、計画通りに進めようとするのは、傲慢というものだ。
 
それよりも、やってみて、新しく判明すれば柔軟に、という方が現実的だ。
 
しかし、このような考え方の違いが、一緒に働くひととの間にあると
思っていた以上にしんどいことになる。
 
ひとの価値観の多様性がわかっていれば、落とし所もあるし、
分かり合えて尊重できる部分もあるであろうに、
「計画的」に心酔しているひとにはわかってもらえない。
 
さて、親の愛情の話から逸れましたが、
つまり、人生とは計画的にはいかない、というものです。
 
「計画的」であると「安心」かもしれない。
けれど、それが「幸せ」かはわからない。
誰も責任を取ってはくれない。
それは存外、道端の草花のように、ひっそりとあるような気がする。
 
「偶発的計画性理論」のもと、心惹かれるがままに
たゆたう存在でありたいと思う。

その言葉と行動で 人柄を感じる

音楽をやっていたとき

音を聴き、演奏する姿を見ると

その人が なんとなくわかる気がした。

 

同じ ド の音でも、音程、音色、柔らかさ、温かさ、色、が違う。

同じ 曲 でも、演奏の仕方も、他の奏者とのアンサンブルも違う。

 

目立ちたいんだろうな。自信がないのかな。

素敵なひとだな。そんなことを感じた。

私はきっと 音を通して 人を知りたかったのだと思う。

 

話していてもそうだ。

なんとなく、この人は嘘をついているとか

私を利用しようとしているのか 勝手に感じる。

 

私は文章を読むのも好きだ。

 

無数にある言葉の世界から

あるテーマで切り取って、言葉にする。

そこにそのひとの価値観を感じる。

 

2月になれば面接がある。

ひとに裏切られて今回は傷ついた。けれど、

そのおかげで心から信頼できるひとに出会えた。

 

誰かに依存するわけではなく、ひとりの自立した人として

自分の感性を信じてひとと向きあおう。

 

合わなければ仕方ない。もし仲間になれればそれは素敵なことだ。

この世界の片隅にを観て

あさきすです。
また、ゆるりゆるりと書いてみようと思います。
 
この世界の片隅に」を見た。
 
優しい世界が広がっていた。
 
「君の名は」も見たことがあるが
あの作品は確かに綺麗ではあるが
この作品とは違う。
 
あれは、世界を少し優しくする作品だ。